今日考えたこと。


今日のニュースで、有名な女性アナウンサーが自殺したらしいことを知った。
オレ様は別に彼女のファンだったわけではなく、何回かTVで見て名前を知っていたぐらいだ。
ただ数日前に、たまたま三面記事的なネットニュースで、彼女がブログで何かに悩んでいることを告白している、みたいな記事が出ていたのを覚えていた。だから自殺のニュースを見たときに、特に興味がある人ではなかったけれど、不思議と他人ごととは思えないショックを覚えた。


あらためて彼女のブログをのぞいて見たら、まだ閉鎖されずに残っていた。
3日に1回くらい更新していたようだが、ひとつひとつのコメントは短いものが多く、ほとんどは仕事の告知だ。
しかしその合間合間に元気が出ない、落ち込んでいる、といったような書き込みが載っている。


オレ様は自殺の原因については、特に興味はない。
ただ、ブログに掲載されている写真を見て、こんなに綺麗な顔に生まれてきて、しかもまだ若いのに、どうして?という素朴な感想と、亡くなったあとも、まださっきまで生きていた証がブログというかたちで残っていて、それをオレ様のような赤の他人が見ることができている不思議さを感じた。




仮にこの1時間後にオレ様が死んだとしても、いま書いている文章は家族が消すまでは残るわけで、それっていろんな意味で凄いなあと思う。
もっとも、無名のオレ様が書いている文章をわざわざ読む人はいないかもしれないけど。




以前TVで見たドキュメンタリーで、ガンに冒され余命いくばくかの男が、その闘病日記を死ぬまでブログに書き続けた話を見た。
普通、人は自分が弱っているところを他人には見られたくないものだ。
まして死にかけているなら、なおさらだと思う。
しかし彼はキーボードを打つのもつらそうなのに、それでも亡くなる直前まで書き続けていた。
その原動力となったものは何だろう?
ブログが紙媒体と違うところは、読者のレスポンスがリアルタイムにあるところだ。
たぶん読者のコメントが彼を孤独にしなかっただろうし、読者も彼のブログから勇気をもらったはずだ。


同じブログというメディアを使いながら、自殺したアナウンサーはおそらく孤独を回避することができなかった。
この違いは何だろう?と考えてしまった。


奥山貴宏さんのブログは彼の遺志と彼の両親の理解で、亡くなって3年経ついまでも公開されている。

「32歳ガン漂流エボリューション」
http://www.publiday.com/blog/adrift/