プロレス「悪夢の10年」を問う

プロレス 悪夢の10年を問う (別冊宝島 1523 ノンフィクション)

プロレス 悪夢の10年を問う (別冊宝島 1523 ノンフィクション)


いまやトキのような絶滅種になりそうなプロレスというジャンルが、この10年の間に急激に衰退した理由は何かを検証した本。


巻頭記事はプロレス衰退の原因について、専門誌の実売部数をグラフにしたり、ファンにアンケート調査など数字を使って衰退の原因を追究している。
観念論ばかりが先行することが多いこのジャンルにしては非常に珍しい試み。


このアンケートの中で、”プロレスへの興味が薄れた理由”で圧倒的に多かったのは、「テレビ中継が深夜帯に移動し自然と観なくなった」でその次は「試合内容がつまらない、応援したいスター選手がいない」だった。
ま、そうだよね。当たり前といえば当たり前。


”プロレスは結末が決められたショーであるという論について”という質問には、「ショーもあるが、すべてがそうではないと考えていた」「ファンになった当初はガチだと思っていたがある時期からショーと認識」「最初からショーであると認識していたが、それでもファンになった」の三つが拮抗している。
昔のオレ様は一番目だったな。
最初は猪木のプロレスはガチで馬場はヤオだと考え、UWFが登場してきたらこれこそガチだと思い、その後総合格闘技に触れてUWFもガチではなかったことを知る、というような流れを経験した人が多いのではないだろうか。


プロレス最強幻想が崩壊した原因の”日本人プロレスラーの総合格闘技戦について”という質問で最も多かったのはなんと、「いまでもプロレスラーに総合のトップを倒して欲しいと思う」がダントツだった。
客観的に考えて、これだけ競技として進化したいまの総合のトップに、プロレスラーが勝つことはありえないと思う。
両者は全く違うジャンルなのだから、いくら”ロッキー”が映画の中で強いといっても、本物のプロボクサーに勝てないのと同じなんである。
それでもやっぱりいまでも総合の試合にプロレスラーが出場すると、幻想がかきたてられてしまうんだよね。


”勝ち負けが決められているプロレスの楽しみ方について”という質問には、「プロレスは技の攻防で魅せてくれれば満足」と「もともとそういうものだと認識していたので特に感想はない」の二つが拮抗。
たしかにその通りなのだが、昔のプロレスはそれでも闘いを感じさせてくれたような気がする。
今のプロレスはファンも選手も成熟しすぎて、試合が段取りっぽく見えてしまうことが多いんだよね。



そのほかで興味深かった記事は、”新日本・ノア「経営データ」に見る旧型ビジネスモデルの「限界」”で、おそらく初めて両団体の売上と経常利益を時系列に公開している。
プロレスというビジネスがいかに儲からないかがわかる。



”「リアルファイト」と「ショー」の間、いまなお記憶に残る長州さんの「あのひと言」”では、元Uインターのヤマケンが新日本のリングにあがっていたときの心温まる(?)エピソードが公開されている。
リアルファイト志向が強かった若手時代のヤマケンが、投げやりな試合をして控え室に戻ってくると、長州力がキレていたという。
「コイッ!山本ッコラッ!!」
「お前山本ッ!食えてるのか!」
「割り切れ!」
他団体の若手にまで熱い言葉をかけてくれた長州の言葉によって、プロとしての自覚が生まれ、その後「ゴールデンカップス」として注目を浴びるにいたる経緯が話されている。
オレ様は安生、高山、ヤマケンの「ゴールデンカップス」が大好きだった。
蝶野軍、冬木軍との三つ巴戦は最高に面白かった。
高山はイヤイヤやっていたらしいが。


このヤマケンは知る人ぞ知るなのだが、いまをときめく所英男の最初の師匠なんだよね。



あと、「プロレススーパースター列伝」の原田久仁信による劇画「さすらいのヒットマン、阿修羅原物語」は泣ける。